威嚇

文章を書く練習

ドッペルゲンガーはどこにでもいる

この気持ちは、私も経験がある。marioさんくらいオシャレで、美しくて、仕事として人前に出て発信を続けている人だからある程度模倣されることも仕事のうちになりうるんだろうけど。ドッペルゲンガーはこわい。入れ替わってしまうことよりも、そのように自己の精神の最外殻であるはずの服装や見た目をまるっと他人の模倣に着替えられるその精神が恐ろしい。

私もroomをたくさんやっているとき、紹介した服をたぶん計10〜15着は買ってくれている人がいてびっくりした。私が良いと思うものを同じように良いと思ってくれるのは嬉しい。ただ、そればっかりされると少しこわくなる。イイネやレポート履歴、そのひとのアカウントで気付いた。それなら声かけてほしい、仲良くなれたら一緒に買い物に行きましょう。あれをやる私の中の意味は、誰かのおすすめがまた誰かの元々の生活に混じり合うことが価値だから。そのままたくさん取り入れてしまうのではなくて、少しずつ混ざり合うことの方が素敵だから。私はその意味でTwitterはオープンアカウントのままだし、roomなら尚更リツイートのような機能で知らせてくれればいい。彼女は私よりも美しい生まれつきをしており、そんなふうに誰かを模倣する必要はないように見えた。でもそういう人がたぶんたくさんいる。生まれつきが美しいことは、研磨される機会が極端に減り、研磨について無頓着になることでもある。実際に会って横に並んだら美しいのは彼女で、私はいつもいただく「雰囲気あるよね」のコメントで終わるのだ。
確か3年か4年前、会社で仲良くしていた同期の女の子が加藤順子氏がプロデュースしたディフューザーを購入したことをストーリーに上げ、しばらくして50,000円ほどする氏と同じ花瓶を買っていた。 彼女は常に正しいので、たぶん、この行為も最適解という意味で正しいのだ。
このところ立て続けに家に来てくれた友人に、転職活動が面倒ならセレクトショップをすればいいと勧められる。あなたがいいと思ったものを欲しがる人が絶対にいるから、あなたの審美眼で調べ続けてとりあえず売ればいい。まずはあなたの持ち物を少しずつ売るだけでいいと言う。本職の人並みに調べ続けている私が選んだものをいいと思ってもらうのは当然だとして、誰かのドッペルゲンガーになりに行く人たちに私の審美眼で選んだものの、良さがそんな簡単にわかってたまるかよという気持ちにもなる。私だって誰かのドッペルゲンガーかもしれないが、そうなりたくないと常に抗っている。この気概こそが人間じゃないのか。